走ることについて語る本が提示する「身体カシコ理論」と健康観

身体ってのは賢いんだ、我々が思っている以上に。

プラセボ製薬が提唱するいくつかの「身体カシコ仮説」は、上記の前提からヒトの生理機能に関するいくつかの仮説・理論を検証し、新たな側面を見出そうとする試みです。

私たちの体はあまりに賢いため、これまでそれに気づけずにいた。でもよく考えてみたらさ、実はこれってこういう意味があるんじゃない?とライトな感じで提唱する、あくまで仮説に過ぎません。

ただそうした仮説が自分自身に自信を取り戻すきっかけになり、さらにはこれまでの健康観をいい意味で覆すことになればと願っています。

走ることに関する「身体バカ理論」と「身体カシコ理論」

「身体カシコ仮説」が身体の賢さによって人体の謎を究明する試みなら、その逆、つまり身体ってのは至ってバカでどうしようもないから保護してケアして守ってやらんとな!と考えるのが「身体バカ理論」です。

身体に起こるあらゆる事象を「異常性」によって理解しようとする試みと言い換えてもよいかもしれません。

さて、今回紹介する『BORN TO RUN 走るために生まれた』では、ヒトの走りについての科学的・理論的理解の大転換が綴られています。

身体バカ理論

多くのランナーがマラソンを走ると同時に、多くのランナーが足腰に障害を抱えています。こうした現象をとらえて「異常性」に基づく解説をしようとすればどうなるでしょうか?

一言でいえば、以下のようになります。

ヒトの身体は、走れるようにはできちゃいない

走れるようにできてはいないのだから走れば足は痛くなるし、関節だってイカレちまうというわけです。

じゃあどうすればいいかって?

走るのをやめなさい。どうしても走りたいんなら、科学の粋を凝らした分厚いソール(靴底)のついた最新鋭のランニングシューズを履いて足を保護しなさい。

ここ数十年の間にランニングシューズに関する科学的知見は、かつて渋谷や原宿で闊歩していたガングロ・ギャルたちの超絶厚底ブーツのソールくらい分厚くなりました。それで、ランナーの怪我は減ったのでしょうか?

いいえ、ちっとも。

身体カシコ理論

クリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた』で描かれる複数の物語の一つに、人類史から人体構造の謎に迫る科学者の研究課程があります。

それはある科学者の些細な解剖学的疑問から生理学、人類の進化へと至る壮大な知的冒険であり、心躍らずにはいられない、裸足のまま駆け出さずにはいられない大変面白い話ですが、詳細は本書でご確認ください。

敢えてその内容を一言で表せば、以下になります。

ヒトの身体は、走るようにできていた!

走りに関する「身体カシコ理論」の輝き

「ヒトの身体は、走るようにできていた!」と言うのは、先ほどの「身体バカ理論」とは正反対。

でも現状多くのランナーが怪我や痛みを抱えながら無理して走っているし、やっぱり「ヒトの身体は、走れるようにはできちゃいない」んじゃないの?「ヒトの身体は、走るようにできていた!」のなら、どうして足腰を痛めちゃうのさ?という疑問に、本書は以下のように答えます。

厚い靴底で保護したりして、身体が本来持つ働きを阻害してしまっている。本来的な動きを無理な形に歪めている。過保護やねん!

ここでは述べませんが、あるシューズ・メーカーによる善意に基づくランニングシューズの発明がこうした身体の構造を無視していた結果、身体に負担をかけ始めた。

その歪みを科学(≒机上の理論)によって正そうとする流れは、さらに足を保護することを第一の目的としていたため、さらに歪みを拡大させた。

「あらゆる大義は運動としてはじまり、事業となり、詐欺に転じる」

走ることに関する「身体バカ理論」が未だに幅を利かせているのは、本書に描かれたように資本主義的な力によるものかもしれませんし、あるいは人にとってこれまで信じてきたことが覆される(=「厚いソールは身体を歪める」と言われる)ことが不快であるからかもしれません。

「身体バカ理論」を疑おう

進化によって磨き上げられた眼前にある身体を信頼しない理論は、どこかに必ず歪みを抱えているのではないか?

身体的な現象の原因として異常性を前面に押し出してくるような理論は、正常な身体の機能の一部として捉え直すことができるのではないか?

あるいはそうしたことを考えてみることが、自分自身に自信が持てるような健康観を抱くきっかけになるのではないか?

「身体カシコ理論」に触れてみるはじめの一歩に…とかいったことは一旦忘れて、複数の物語が錯綜しながら走り抜けるように進行する本書をただただお楽しみいただければ幸いです。