帰無仮説を棄却することでは証明されない偽薬効果とプラセボ

偽薬を用いた新規医薬品の臨床試験において統計的に証明しようとする仮説は、以下のようなものです。

「実薬と偽薬の効果に差はない」

専門用語ではこれを、帰無仮説と呼びます。

おかしな仮説、帰無仮説

一見すると治験を実施する側の意図に反した仮説のように見えますが、これを否定し、無に帰することによって「実薬の効果の証明」という目的を達するわけです。

なんだか回りくどいように思われますが、実のところ何が効果の原因となるか分からないため、「特定の原因が、ある結果を引き起こす」ことの妥当な証明にはこうした手間を掛けなければならない。というのが現代科学の到達点です。

差異は薬効成分の有無という一点のみ

何らかの薬理学的に見える効果の原因を、注目する薬効成分であると特定するためには、その薬効成分の有無という一点のみにおいて異なる2つのグループを用意しなければなりません。

ヒトが関わる治験において2つのグループは原理的に異なっていますので、これらを等価だ、同じだと見做すための手法がとられます。

  • 偽薬対照
  • 二重盲検法
  • ランダム化

両グループに与えられるモノや扱い、含まれるヒトの差異を無いものと見做す。そうすることで、差異を薬効成分の有無に限定することができます。

もし試験を実施してみて何らかの効果の差が統計的に有意であると判定されれば、その差異をもたらした原因は薬効成分でしかないだろう、というわけです。

なお統計的に有意とは、「偽薬と実薬の効果に差はない」という仮説が当てはまらなかったのが偶然ではないという意味です。偶然性を否定できるか否かが問われ、否定できれば有意です。

この論理に何らの問題もありません。

もし帰無仮説が棄却されなければ

実際の治験においては、帰無仮説の正しさが証明される場合がよくあります。

「実薬と偽薬の効果に差はない」

この否定形の結論に、それ以上の意味はありません。

人体に対するその薬効成分の無効性が証明されたに過ぎないのです。決して「偽薬の有効性が証明された」のではありません。

このことは、注意し過ぎてもし過ぎることはないくらいに大切なことです。

プラセボという言葉が偽薬と等価ではないのも、このことに依っています。

偽薬の有効性を証明するためには

科学的に厳密に偽薬の有効性を証明するなら、「偽薬を与えるグループ」と「偽薬以外の偽薬を与える行為や言動や実感を与えるグループ」を用意しなければなりません。

「偽薬を与えないグループ」では対照群として不足と言わざるを得ません。

偽薬という具体的なモノ以外の行為や言動、また被験者にとって偽薬を与えられたという実感をも与えなければ、偽薬そのものに限定して効果を測定することは不可能なのです。

従って、科学的な妥当性をもって「偽薬効果(偽薬の有効性)」を証明することは現在のところ出来ません。

無処置群が示すもの

治験において「介入群」、「対照群」に続く第3のグループ「無処置群」が設定されることがあります。

その名の通り、偽薬も実薬も与えないグループです。

偽薬を投与した「対照群」と「無処置群」を比較して何らかの差異が見出されれば、それは「対照群」にあって「無処置群」にないもの全てを原因と見做さなければならないでしょう。

そしてこの原因となる全てが、プラセボと呼ばれるものです。

しかし、この原因をはっきりと指し示すことは出来ません。

何もしないと何かをするでは違うことが多すぎ、偽薬の有無だけが差異でないことは明らかです。非特異的な(non-specific)原因という否定形でしか定義され得ないホシを挙げるしかありません。

また、「無処置群」はもしかすると適切だと感じられるようなケアを受けていたかもしれません。

プラセボの定義をそういったケアまで含めてしまえば、「適切な対照とは何ぞや?」という医療科学の根幹に触れることになってしまいます。

科学の基礎には、数多の見做しが敷き詰められているように思われます。ちょっとした衝撃で揺らぐ可能性だって…。