「プラセボ」と「プラシーボ」の正しい読み方について(表記・呼称ゆれ)

「プラセボ」は「placebo」の日本語読みですが、「プラセシーボ」や「偽薬」と呼ばれることもあります。

いずれも同じものを指していますが、どの呼び方・読み方が正しいのでしょうか?

「Placebo」のいわゆる正しい読み方:漢字編

外国の言葉を日本語に導入する場合、造語として漢字を当てるか、音としてカタカナを当てるか、もしくはその両方が使用されることが多いと思います。

「Placebo」も漢字、カナ、両方が当てられています。

偽薬と擬薬

漢字については「偽薬(ぎやく)」が一般的で、「擬薬(ぎやく)」などの使用は非常に少数です。

こういった場合、慣例にならって「偽薬」を用いるのが良いだろうと思います。表現上、誤解を招かないようにするためです。

特別な理由がある時に限り、特別な理由で用いていることを示すために「擬薬」を使用すると良いんじゃないかと思います。

口頭で発音する場合にはどちらも「ぎやく」ですので、問題はありません。

問題があるとすれば、「ぎやく」と言う単語自体が少し専門的で知っている人がそれほど多くないことでしょうか。知らない単語は聞き取れない・聞き取りにくいという法則は英語でも他の外国語でも、日本語でも変わりません。

では「プラセボ」と「プラシーボ」のカナ読みではどうでしょうか?

「Placebo」のいわゆる正しい読み方:カタカナ編

「Placebo」はラテン語の「私は喜ばせる」と言う意味の言葉が語源となっています。

そして、英語圏での発音は「プラシーボ」に近いものだそうです(Wikipedia『偽薬』)。

じゃあ、「プラシーボ」が正しい読み方ってことで良いのね?

いえ、そうではありません。

正しさの正しい基準はない

英語圏での発音に近いことを正しさの基準に持ち出すことは、ほとんど意味がありません。

言葉はそもそもからして多様なものです。

「Georgeさん」は国によって「ジョージさん」だったり、「ゲオルクさん」、「ジョルジュさん」だったりします。

さらに言えば外国語の発音をカタカナ化した時点で、それはもう元の言葉とは異なる日本語のカタカナ語になってしまっています。

「Placebo」を語源に基づきラテン語風に読めば「プラケーボ」に近いともいわれています。あるいは公的機関や医療機関、製薬企業等で「プラセボ」以外が用いられることはほぼありません。

  • 英語読みに近い
  • ラテン語読みに近い
  • 公的機関が使用している

読み方を定める基準はいくつかありますが、正しい読み方を定める絶対的に正しい基準など、存在しないのです。

特別な正しさの基準

なお、「偽薬」の場合のように広く用いられていることを正しさの基準とすることは、言語による意思疎通のコストを下げてくれる効用があります。

こうした場合、「偽薬」以外を使うにはそれなりの、コストをかけるだけの理由が必要になります。

一方「プラセボ」と「プラシーボ」についてはどちらも広く用いられており、どちらが意思疎通のコストが低いとも高いとも指摘することはできません。

したがって、「プラセボ」と「プラシーボ」のいずれかを正しいと判定する基準はやはりありません。

プラセボ製薬からの提案

正しい読み方がないのなら、どのように読み方を決めればよいのでしょうか?

簡単な話です。

あなたの感覚に訊いてみてください。

感覚で決めて良い事柄

「プラセボ」と「プラシーボ」、書いてみたり、読んでみたり、誰かに読んでもらったのを聴いてみたり、匂いを嗅いだり、味を確かめたり、穴が開くほど眺めたりして好きな方を選べばいいのです。

いずれも気に入らなければ、自分なりの読み方・呼び方をしたって全然構いません。意思疎通に手間がかかるでしょうが、感覚を否定してまで言葉を一般的な呼称に合わせる必要はないのです。

中には「プラシボ」と言っている方もおられます。他人とそこそこ円滑なコミュニケーションが可能な範囲で好きに決めれば、それで良いのです。

当社の社名は「プラセボ製薬株式会社」ですが、「プラシーボ製薬株式会社」より響きが良い、という感覚的な好みを優先して決定されました。

ただ、それだけのことです。

正しさを相対化する

生きていく上で、正しさについて悩むことが度々あります。

ネット検索で解決する問題

ある言葉遣いが表現として正しいかどうか気になって、ついついググってしまうことなんて日常茶飯事ですし、それで解決する悩みなら、「検索」で解決してしまうことには意義があるように思います。

便利。とっても。

ただ、ググってもどれが正しいのか分からないことがあった場合、ネット上の知識を追い求めるのではなく、自分の内側にある基準に従ってみてはいかがでしょうか?

いつだって正解を外側に求めてしまうことには、思考停止的快楽があります。悩む必要が、そこでなくなるから。

しかし。

感覚で解決する問題

自分の内側に正しさの基準を築き、「好き」とか「嫌い」とかで物事を判断する態度だって捨てる必要はありません。

むしろ、人間的で素敵なように思います。

当社がプラセボを通じて提供したいことも、そこにあります。「プラセボ」でも「プラシーボ」でも「プラシボ」でも「プルセボ」でも「プラセイボ」でも「プラセボゥ」でも「偽薬」でも、好きなので読んだり呼んだりしていいと当社では考えています。