スマホ使用制限ルールは会話終了の言い訳を授ける

愛知県刈谷市といくつかの都市で実施・検討されている「小中学生のスマホ使用制限」について。

使用制限の是非

そもそも、なぜ制限しないといけないんでしょうか?

本当に制限すべき?

・・・うーん正直、わかりません。

でも、一つだけ言えるのは、「本人(小中学生)が自分自身のスマホ使用について多大なストレスを感じているにもかかわらず、それを止めることができない・難しいと感じているのなら、外部から制限を与えるのは意義あることだろう」ということです。

ここでは、外的制限の実効力が問題なのではありません。制限の存在自体が重要だと考えます。

何故か?

ネット会話の特徴

それは、ネットを介した会話(LINE、メール、チャットなど)には、「始まりはあれど終わりなし」だからです。そのようなサービスの設計が周到になされています。

「既読」機能もその一つ。

ちょっと会話がしたい、だけ?

「よぉ、元気?」とか「あの番組、観た?」くらい明確な意味のある問いかけだけでなく、「ふー」とか「しんど―」とか「タモリ、タモレバ、タモルトキ」とか、あんまり意味のない呟きから始まったやり取りが、ときには数時間を費やしても終了しない会話に発展することはよくあるように思います。

会話の内容ではなく会話自体が目的であるとき、会話の継続は必須の要件になってしまう。ということでしょうか。

しかしリアルの会話では「会話を続けたいのに続かない」悩みが多いように思います。何故だかわかりませんが。

制限ルールがもたらす言い訳

ダラダラ続く会話に対抗するには、会話に打つピリオド、あるいは、会話にピリオドを打つための口実を提供する必要があります。外的な制限は、部分的にそれを提供します。

例えば、ある時間までのスマホ使用をルールとするとき。

  • 「9時になったから終わりー」と言ってしまえる気軽さを提供できる
  • 「ここまでで終了!」という会話参加者の了解を共有しやすい

ということです。

ルールによる言い訳があれば、「ごめ~ん、寝落ちった」と寝落ち(もちろん嘘)を理由にしないで済みます。寝落ちの場合、相手は会話の終了を知らされずにひたすら待つことになってしまい、やや迷惑です。他愛ない会話にあえて迷惑の根を広げる必要はありません。

外的な制限が存在すること自体が、その字義的な実効力とは別の方面から効果を表すのではないかと。

問題解決に向けて

さて、これで小中学生のスマホ依存やスマホ中毒に関する問題は全面的に解決するでしょうか?

恐らくしないだろうと思います。テクニカルな処置で改善するのは、個々の会話時間など、表面的な問題のみです。

深層心理にご用心?

  • みんなと同じことをして生き延びる
  • みんなと違うことはしない

問題の全面解決が難しいのは、この問題の本質が上記のようなヒトの本能に根ざしており解決不可能だからです。

「みんな」がやっていることは圧力というより、むしろ暴力的に人の心を揺り動かします。

匿名でない、ネットの会話

学校がコミュニティの主体となる場合、リアル空間を離れ、インターネット環境においても互いに顔と名前のわかる相手とのコミュニケーションが中心になります。

そうした中で介される会話には強い吸引力があり、意志により目を背けることは困難です。

互いに顔が見えない、会話内容が蓄積されるなど、ネットとリアルのコミュニケーションにおける違いもあります。

使用制限ルールなども考慮の上、情報空間との適切なかかわり方の模索が求められます。