欲望価値基準とプラセボ/ノセボ効果

プラセボが引き起こす何らかの変化をプラセボ効果であると判断する場合、それは“良き”変化だと見なされていることを意味します。

逆に、“悪しき”変化であると見なされれば、それはノシーボ効果であると判断されるでしょう。

良い変化と、悪い変化。

この方向性を持った判断の背景には、確実に何らかの価値基準が存在しています。

では、その価値基準は何に基づいているのでしょうか?真善美が普遍妥当的な価値基準を与えていると考えてみてもよいでしょうが、今回は別のものを採り上げてみたいと思います。それは、ヒトの欲望です。

そもそも欲望とは?

「何かが欲しいと思う心が『欲望』だ」と言ってみたところで、「何故その何かを欲しがるのか」をさらに突き詰めなければ価値基準の方向性を見出すことはできません。

外部にある基準

方向性を見出す一つの方法は、外的な要因を持ち込むことです。欲望を方向付けするものは個々人の内側には存在しないと考えてみましょう。

社会的な存在であるヒトは、外的なある基準に従って欲望の方向性を定めています。それは「みんなが欲しがるものを、私も欲しい」という基準です。

  • 価値あるものとは、みんなが欲しがるもののこと
  • 何が価値あるものとされるかは、偶然あるいは必然に多くの人に欲望されたものとして結果的に、事後的にしかわからない

些かナイーブなこの発想は、これを知っている人によって既に広く利用されています。

みんなが欲しがっているようにうまく見せかけ、そこに欲望を生み出す。世の広告マンたちの労力の多くは、欲望を生み出すことに費やされているのではないでしょうか?

薬売りの論理

薬を売りたいと考える人々も、みんなが求めるものを提示して欲望を生み出し、あわよくばひと儲けしたいと考えているはずです。

「みんなが欲しがるお金を、私も欲しい」

欲望させ方を知っていますか?

ある薬を価値あるものとするためには、薬によって変化する科学的に測定可能な何かに方向性を設定しなければなりません。

最もわかりやすい例は、降圧剤です。

「高血圧は脳卒中のリスクを高めるため、薬を使って血圧を下げましょう。」

そう言って、科学的に測定可能な「血圧」を、「下げる」という方向性をもたせる。血圧を下げる薬は、良い薬。こうして血圧を下げる薬(降圧剤)に価値が生み出されます。

しかし高血圧は脳卒中の原因ではなく、高血圧と脳卒中は他の要素によって引き起こされる別々の結果でしかないのかもしれません。

例えば、血管内皮細胞の更新頻度低下により血管の柔軟性が減少した結果として高血圧となり、また同時に脳卒中になりやすくなったと(仮に)考えることもできます。

従って、血圧を下げる薬が良い薬だという価値観は人工的に創り出されたものでしかありません。人体にとって真に適切であるかは関係がないということです。

それでもプラセボ効果は

プラセボに関する実験として、「血圧を下げる薬だ」と称して偽薬を複数の被験者に飲ませるものがありました。中には偽薬を飲んだにもかかわらず、血圧が下がった被験者もいます。

被験者全体として、この実験では血圧が下がる傾向にあったようです。

解釈の前提にある価値観

この場合、「血圧が下がったのはプラセボ効果によるものだ」という解釈がなされるでしょう。

しかし、それが“良い”結果だとする価値観は先に見たように人工的なものです。本当にその被験者にとって“良い”かどうかは誰にもわかりません。それでも、プラセボ効果は血圧を下げる方向に働いた。

「みんなが下げたがっている血圧を、私も下げたい」

製薬会社や医師の「期待」などといった外的な要因を自らの欲望として取り込み、それを本人にもわからない手段で達成する。「血圧を下げろ」と言われて適切に下げられる人はいないにもかかわらず、達成されてしまう。

外的な要因が変化すれば、これまでのプラセボ効果がノセボ効果になったりすることも考えられたりして。

何かとんでもなく興味深いことが起こっている気がしてならないのは、気のせいでしょうか?それとも…。

本来の治療目的にかなう変化がどのようなものかを事前に判別するのは難しいものです。長期の大規模な追跡調査でもしない限り、あるいはそれをしてさえもわからないことだらけです。

倫理的な問題はさておき、興味ある仮説として“「脳卒中の発症を抑える薬だ」として長期的に偽薬を服用させたら血圧が下がるのか?”を確かめる必要があるのかもしれません。

ヒトの本能が求めるもの

本稿が支離滅裂で不完全なものとなることを恐れずにセルフ・ツッコミを入れるなら、社会的で人工的で相対的な価値観とは別に、ヒトの本能に根ざす絶対的な価値というものが存在しているのではないか?という疑問があります。

  • 社会的欲望「みんなが求めている健康(≒不死)を、私も欲しい」
  • ヒトの本能「死は避けられるべきだ。特に、私の死は」

どちらかと言えば、社会の存在に先立って後者が生物としての前提として成立している気がします。そこには、すでに価値の方向性を定める基準が設定されていると考えるのが妥当なような。

健康病とも称される現代の強すぎる健康志向の根源に死からの逃避欲求とそれに基づく価値判断があるならば、製薬企業や健康食品販売会社が向いている方向は間違っていなくて、今のところ大成功を収めているようにも思えます。

プラセボが打ち込めるカウンター・パンチの強度や方向も未だ定まらず、二転三転するかもしれません。