盲検(単盲検法、二重盲検法)とは?

2014年9月30日 2016年12月8日

盲検(blind test)

盲検(もうけん)とは、あるものと別のものを可能な限り同じように扱って行う差異の検証法の一つです。

あるものと別のものを同じように扱いたいのは、どのような場合でしょうか?

一つには、人をだますとき。もう一つは逆説的ですが、“あるものと別のものが違うものだ”ということを証明する場合です。

盲検による証明は背理法

例えば、あるものと別のもの(例えばAとB)が同じものだという前提の下に同じ操作を加えたのに、偶然とは言えないほどに結果が異なっていた。この場合AとBが同じであるという前提が間違っていたと判断し、AとBを違うものだと考えます。

このような証明方法を採用した「ある差異がもたらす結果の差異(=効果)」の検証法として最も有用なものが「盲検」です。

盲検によって肯定的な結論を得たい場合には、背理法による証明を前提としていることに注意しましょう。統計学の言葉で言えば、盲検の多くは「帰無仮説の棄却」を目的としています。

「盲」と言う漢字は訓読みで「めくら、めしい」と読み、目が見えないこと、あるいは目の見えない人のことを指します。

したがって盲検とは、あるものと別のものを同じように扱うことを目的として、視覚情報を奪ったり見た目を同じくしたりすることによって、視覚から差異を判断できなくさせたうえで行う試験を指します。

盲検化、マスキング(masking)

「盲検」にするため視覚情報を“奪う”ことを「盲検化」といいますが、実際には“奪う”のではなく、目で見ただけでは見分けがつかないように情報を操作・遮断することを意味します。

また厳密な差異の証明においてはこの概念をさらに拡張し、視覚、嗅覚などの感覚に加えて、言語を含むあらゆる情報による認知に至るまで同じくさせることが求められています。

現在でも色や形状、におい、言語など差異の判断に活用されうる情報を遮断し覆い隠すことを「盲検化」と呼んでいますが、字義どおりの意味からは外れてしまうため「マスキング(masking、遮蔽化)」が同義語として使用されることがあります。

盲検化の具体例

具体的で卑近な例として、「イチゴ味のかき氷」と「メロン味のかき氷」がそれぞれ互いに違う“味”であることを証明する場面を考えてみましょう。

「イチゴ味」と「メロン味」をそれぞれ少量ずつ用意し、被験者には両方を無作為に連続して食べ比べてもらい、「イチゴ味」と「メロン味」の提供順を答えてもらいます。

さて、被験者が目を開けたままこの実験を行えば結果は明らかでしょう。“味”などに関係なく、シロップの“色”の情報によって判別がついてしまうからです。

一方、被験者に目を閉じてもらうなど視覚情報を奪って実験を行い、提供順を正答できた割合が50%以上で統計的な有意差があったとすれば、それは“色”などの視覚情報以外の何かがその差異を生み出したのだと推定することができます。

ただ残念なことに、ここで紹介した目隠し実験では「イチゴ味」と「メロン味」の“味”が違うか否か結論付けることができません。違ったのは“匂い”かもしれませんし、“実験者の手の震え方”かもしれません。あくまでも、差異を生み出す本質が視覚情報ではないことを否定的に証明したに過ぎないのです。

肯定的に表現できる結論を盲検から得るためには、「唯一の差異」を人為的に設定しなければなりません。

匂い情報をマスクするため被験者の鼻をつまみ、かき氷提供時の差異をなくすため実験者に目隠しをし…などなど、“味”以外の差異をなくすのはとても大変で神経を使います。鼻をつまんでしまえば、味の違いだって分からなくなってしまうかもしれません。

かように「唯一の差異」を人為的に設定し、それができたと証明するのは難しいのですが、実は医薬品の試験では比較的手軽に実践できてしまいます。

ここから先は、盲検によって医薬品に効果があること(肯定的な結果)を証明する方法を考えてみましょう。

単盲検法(single blind test)

さて、特に医薬品の効果を臨床的に示そうとする場合、人為的に設定すべき「唯一の差異」は有効成分のあり・なしです。

有効成分・薬効成分の有無以外の違いは全て、背理法スキームから肯定的な結論を得る上であってはならないものになります。

薬効成分の有無という差異は、医薬品投与の有無と比較しても差異としては極めて小さく、科学的なコントロールが可能です。

そう、プラセボ(偽薬)を使えば。

プラセボ対照

盲検が実施される時、大抵の場合には「プラセボ対照」の試験が実施されます。

この場合プラセボは、「薬効成分の有る被験薬とは対照的に、薬効成分が無いもの」として定義できるでしょうか。

被験薬とプラセボとの差異こそが効果現出原因の本質的実体である、とする背理法スキームでの結論を事前に想定している訳です。

しかし、単に見た目やにおいなどが同じ偽薬を対照薬として用いるだけでは不十分です。

被験者の捉え方の差異をなくす

偽薬を用いるだけでは不十分とされるのは、治験に参加した被験者(患者)が「あなたには偽薬が与えられている」とか、反対に「あなたに飲ませるのは被検薬だ」などと教えられるだけで心理作用を及ぼすなど治療効果に差が出てしまうためです。

「唯一の差異」という人為的な設定が、被験者に対する実験者の接し方や与えられる言語情報の差異によって崩れてしまい、結果の差異(=効果)の原因を有効成分だけに帰することができなくなってしまうのです。

このことを防ぐため、誰が被検薬(試験の対象となる薬)を与えられ、誰が偽薬を与えられているのかを知らせないことがAとBを同じように扱うためには必要になります。このような試験法を単盲検法(たん・もうけんほう)あるいは単純盲検法(たんじゅん・もんけんほう)と言います。

次に紹介する二重盲検法との対応から、一重盲検法(いちじゅう・もうけんほう)と呼称される場合もあるようですが、「一が重する」という表現の違和感を拭うことはできず、単盲検法と表記するのが妥当に思われます。

さて、単盲検だけではまだ盲検化が不十分です。

二重盲検法(double blind test)

医薬品の臨床試験においては、医師・看護師が患者へ薬を投与/手渡します。このとき、医師や看護師が「(この人には偽薬を…)」と内心思いながら、またそのことを隠しながら投与した場合に、思いや後ろめたさが表情や態度に現れ、結果的に患者が偽薬を与えられていることを知る可能性があります。

「唯一の差異」という人為的な設定を全うするためには、医療者による患者の扱いの差異をなくさなければなりません。

また治療効果を医師が主観的に判定する場合、「(偽薬を与えていたのだから、効くはずがないよな…)」などと考えていれば、意識的にせよ無意識的にせよ判定を歪めてしまうかもしれません。

この場合にもやはり、AとBは同じように扱われているとは言えません。ノンバーバル(非言語)情報の差異もまた、効果の原因を有効成分だけに帰することを妨げてしまいます。

「唯一の差異」であるところの薬効成分の有無以外の差異は、試験の実施時のみならず評価段階でもすべて排除しなければならないのです。

治療者による扱いの差異をなくす

したがって、臨床試験に参加する全ての医療従事者に対して誰が被検薬を与えられ、誰が偽薬を与えられているのかを知らせない試験法を採用しなければなりません。このような試験法を、治療者側と患者側の双方が盲となっていることから、二重盲検法(にじゅう・もうけんほう)と言います。

二重盲検法を実施する際には第三者が介入し、試験結果を事後的に解析することになります。また現在では、プラセボ対照試験に限らず実薬対照試験においても二重盲検法を実施しなければ新規医薬品として承認されません。

いずれにせよ、盲検法は実験参加者の扱い方に関する差異やバイアスをなくす手法であり、「最も科学的」な効果検証手法であると考えられています。

科学的フレームワーク

広く一般に適用できるモノの考え方をフレームワーク(枠組み)などと呼び、一般化・精緻化されてビジネスなどに応用されています。

二重盲検法もまた、科学を実践する上で重視されるフレームワークの一つと考えてよいでしょう。

何らかの科学実験・科学的検証を実施し、その結果から科学的に正しい主張をするためには、二重盲検法の枠組みをどうにか適用するのが最善の策になっています。

非盲検(unblinding)問題

さて、盲検化はどのような場合にも適切な手順さえ踏めば達成されるものなのでしょうか?

盲検化が上手くいっているか否かを判定する簡単な方法があります。臨床試験終了後、医師に対しては「あなたが偽薬を与えていたのはどの患者さんだと思われますか?」と尋ねます。一方患者に対しては「あなたは偽薬を与えられていましたか?」と尋ねます。

もし盲検化が上手くいっていれば(AとBが同じように扱われていれば)、正答率はいずれも50%に近くなります。すなわち、当てずっぽうで当たったのと変わりがない状態です。

しかし、現実の試験では異なる結果が得られることがあるようです。例えば、正答率が70-80%と偶然とは言えないほどに高くなってしまったり。このような場合には、何らかの兆候からAとBが同じように扱われていなかったと考えるのが妥当でしょう。盲検法と言いながら盲検化が破られてしまった状態、すなわち非盲検(ひ・もうけん)の問題は第三者による結果の判定をも大きく歪めてしまいます。

非盲検化を防ぐ手立ては、副作用を模した陽性プラシーボを用いる、タイミングをずらして全ての患者に被検薬と偽薬が与えられるようにするなどが考えられています。

臨床試験における実際的な問題

盲検の手法は「最も科学的」であると評価されているため、より実際的で人間臭い非科学的な問題も引き寄せます。

理想的な証明法

繰り返しになりますが、あるものと別のもの(AとB)の差異を明確にしたい場合、できる限りAとBを同じように扱い、それでもどうしても異なってしまうことによってAとBの差異を証明することが求められます。

例えばf(x)という一般的な操作を想定して、以下の背理法スキームに沿って試験結果を評価するのが常道となっています。

A=Bと仮定すると、f(A)≠f(B)。ゆえに前提A=Bは誤りであり、A≠B。

ここではAを治験の対象となった薬とし、Bをプラシーボ(偽薬)としましょう。薬を投与して結果を評価するf(x)という同じ操作を両者に実施したところ、互いに有意な差異がありました。これは被験薬が偽薬とは異なること、もっと言えば「被験薬が偽薬よりも効いた」ことの証と言って差支えないだろう、というわけです。

操作をイジって結果を歪める

しかし、実際に臨床試験で行われていることは少し異なります。

A=Bと仮定すると、f(A)=f(B)であった。したがって、A≠Bであるとは言えない。

この状況に困った試験結果の解析担当者は、チート行為c(x)によるデータ操作を思いつきます。

A≠Bを示したいのだから、c(f(A))≠c(f(B))となる不正操作c(x)を見つけよう。そうすれば、A=Bでもc(f(A))≠c(f(B))。ゆえにA≠B。

ある薬がプラシーボよりも効くことを示したいのだから、その薬の効果がより大きくなるように試験および評価の手法をデザインせよ。そうすれば、たとえその薬にプラシーボ効果以上のものがなくとも、その薬がプラシーボより有効であることは証明可能である。

ここで行われた操作c(x)はとってもトンチキでインチキなものですが、どこかの誰かに大きな利益をもたらします。

医薬品の臨床試験を駆動するのは科学ではありません。ビジネスです。

臨床試験の科学的成果

大手製薬会社が臨床試験の結果を歪めるような操作(データ改ざん)をしていたことが明るみに出たことがあります。上記の記載はそうした事実に基づくものです。

ただし、多くの臨床試験は科学的に実施されているようです。

その証拠の一つに、バイオベンチャーと呼ばれる創薬特化型企業が社運を賭して実施した臨床試験が失敗に終わった例が挙げられます。急速な資金調達を成し遂げ、立派な研究所を建設し、多数の研究者が勉励刻苦して作り上げた新規医薬品。

いざ、臨床試験!と取り組んだその結果が「プラセボと同程度の効果しか認められなかった」のだとすれば、それはまさにビジネスの論理に捻じ曲げられることの無かった純粋な科学的成果と言えるでしょう。

三重盲検法

実は、盲検は実験参加者を対象とするものだけではなくなっています。

上でみたような自覚的な不正であろうと無自覚的なものであろうと、実験結果の解析者もまた、なんらかのバイアスを持ち込み結果を歪めてしまう可能性があります。

従って、被験者、実験者、および解析者の三者について盲検化・遮蔽化を施した三重盲検法(さんじゅう・もうけんほう)によって出来る得る限りバイアスを排する方策がとられる場合もあります。

そもそものお話

歴史的に見れば、臨床試験によって薬効のエビデンス(証拠)を得ようとする試みは論理の逆転によって生み出されたようです。

もともとは有効性を謳う有象無象の医薬品群から、本当は効果のないまがいものを見出すために統計学が駆使され、二重盲検法のような手法が確立されたようで。

偽薬と比較して被験薬が差異なしと判定されれば、それはニセモノだろうという訳です。

現代ではこれを反転させた背理法スキームに従って薬効評価することを目的に臨床試験が実施されており、日本国内においても1960年代から二重盲検法による薬効評価がなされているようです。

否定的な言明に意味はあるか?

抽象的で少し与太話じみてきますが、しばしおつきあい。

さきほど不正行為(チート行為)c(x)について記載した箇所で、以下のような試験結果の例を示しました。

A=Bと仮定すると、f(A)=f(B)であった。したがって、A≠Bであるとは言えない。

しかしこの時示されたのは、単に「A≠Bであるとは言えない」旨の否定的な言明であり、少なくとも科学的にはほとんど意味がありません。

このことは、ある操作f(x)の結果が別の操作g(x)によって覆される可能性を考えてみればよりはっきりとするでしょう。

A=Bと仮定すると、f(A)=f(B)かつg(A)≠g(B)であった。したがって、A≠B。

具体的な例で言えば、ある抗がん剤がある種のがんに対して効果を示せなかったとします(「f(A)=f(B)」)。しかし、別種のがんに対しては効果が認められました(「g(A)≠g(B)」)。

この時、抗がん剤と比較された偽薬とは別のものであることが証明されています。g(x)として同じように扱ったのに差異が見出されたためです。しかし時に、f(x)のように差異が見出されない否定的な結果が出る場合もあります。

盲検による否定的な結果に「少なくとも科学的にはほとんど意味がない」のは、実施する操作には無数の選択肢がある以上、常に反例を示される可能性があるためです。

もちろん、医薬品開発を担う企業にとっては経営上あるいは経済的に大きな意味があるのですが。

盲検自体のメタな問題

盲検に関する他の問題点も指摘しておきましょう。

二重盲検法は「これ以上バイアス(偏り)を排除できない」という意味で、「最も科学的」であると評価されています。

しかし逆に言えば、二重盲検法によるエビデンスがないものに関しては『「最も科学的」ではない』と評価されてしまうことになります。

しかし、医療においてはこのこと自体が問題になる場面もあります。

直接施術の効果は証明できない?

例えば、鍼(はり)を使った治療は日本国内においては健康保険の対象となっていますが、科学的にはその効果が議論の対象となっています。

というのも、「最も科学的」であるところの二重盲検法の試験を実施することが鍼治療においては実質的に不可能だからです。

鍼治療は低侵襲と言えど身体に異物を刺し入れる行為であり、それ自体が治療効果の本質であると考えられるため、盲検法を採用しようとすれば刺されてもいない鍼が刺さったと思い込めるような何かを用意しなければなりません。

また治療を実施する側も鍼を刺したか刺していないのかが分からないなんてことはもちろんなく、明確に刺したと実感されてしまうため盲検化は困難です。

一応、偽鍼(ぎしん、にせばり)と言ったものが効果検証のために開発されていますが、それでもなお盲検化の状況には疑問の残るところです。

証明できなければ医療ではない?

こうした状況は鍼治療だけではありません、日本では国家資格制度として確立されている鍼灸あん摩、柔道整復などに加え、広義のマッサージやリラクゼーション施術でも、二重盲検法を採用した検証が難しい場合があります。

もちろん外科手術もその範疇に入ってしまうでしょう。iPS細胞の移植手術だって、二重盲検法による効果検証には適さないように思われます。

これは、なにも身体に直接触れる施術が全て無効であることを示すものではありません。ただただ、二重盲検法という「最も科学的」な方法論が適用しづらいというだけで、有効性を否定するものではないのです。

ここで考えなければならないのは、医療行為の有効性が二重盲検法という科学的検証スキームに縛られてしまうというメタな問題です。

「最も科学的」の次に来るのは、「まぁまぁ科学的」や「わりと科学的」、「そこそこ科学的」といった中庸な肯定表現ではありません。

「科学的ではない」という否定的表現です。さらに「全く科学的ではない」、「荒唐無稽である」などが控えていますが、大差はないでしょう。

さて、科学的に証明できない医療行為は無効で無用なものなのでしょうか?

二重盲検法を実施できる医療行為だけが有効で有用だと言えるのでしょうか?

二重盲検法に信を置けば、ニセの療法でマスクし難い直接式治療法を取りこぼしてしまうでしょう。反対に二重盲検法を否定すれば、現代科学・医学そのものを否定することにもつながります。

あちらを立てればこちらが立たずのトレードオフ状態は二重盲検法そのものの評価をふわふわと捉えがたいものにしており、だからこそ思案して議論して検討を加える価値のある科学的フレームワーク(枠組み)だと言えるのかもしれません。

統計学的な問題

こうした問題に加えて、「p値」や「有意性」に関する統計解析上の問題点も存在しています。

簡単に言えば…と一言でまとめられないほどには大変に専門的な話題となるため、ここでは割愛します。

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